さんぽみちのちしつColumn
第28話 ~砂丘の甘露~
2022年08月10日(水)
庄内平野の沿岸部に広がる庄内砂丘は、南部の鶴岡市湯野浜から北端の遊佐町吹浦まで全長35㎞に及ぶ日本最長の砂丘である。砂丘というと鳥取砂丘が有名であるが、あちらは草木の無い裸の砂山であるが庄内のそれはびっしりと黒松が生い茂っており、同じ砂丘でもだいぶ様相が異なる。庄内地方は強風が吹き荒れることが有名で、特に冬期は1ヶ月の内20日以上も暴風(風速10m以上)が吹く。このため防風林が無ければ一冬で1mもの堆砂があるとされ、昔は砂に埋もれて移転を余儀なくされた民家がいくつもあったと聞く。
そもそも「砂丘」とは風で舞上げられた砂粒が丘状に堆積したもので、条件さえ揃えば内陸にもできる。一方、よく似たイメージで語られる「砂漠」は降雨の極端に少ない土地の事であり砂丘の有る無しとは直接は関係無い。
庄内砂丘は構造上、ベースとなっている海側の第一砂丘と、それを覆い内陸側にこんもりと盛り上がった第二砂丘とに分かれる。第一砂丘は縄文時代には完成されていたとみられ、広葉樹の生い茂る林であったようだ。赤川放水路建設に伴う発掘調査にて第一砂丘の上部に粘性土層(旧来の表土)の発達と縄文人が暮らしていた痕跡が発掘されている。その時代の庄内平野はこの砂丘と辺縁部の山際に人々が暮らしていたようで、平野内部は広大な湿原が広がりとても人々が居住できるような環境では無かったらしい。人々が平野内部に定住し始めたのは平安時代になってからだと言われている。
現在は黒松による防風林に覆われている庄内砂丘であるが、かつてこの林が失われる危機が二度あった。一度目は江戸時代初中期、庄内浜で盛んになった製塩業のあおりで燃料の薪として砂丘の自然林が無秩序に伐採された。庄内藩は豪商本間家をはじめとする植付役を定め、潮風に強い黒松を植樹して樹林の回復を計ったのである。二回目は太平洋戦争の戦時下。松根油を採るために大量の松の木が伐採・抜根され防風林が荒廃した。これに対しては戦後、近在の農家を含む多くの人々が植林に参画して松林の復旧を成し遂げた。
庄内砂丘は砂地の高台であるが意外にも地下水が豊富である。多雨の年などは、砂丘内に自然の池ができるほどに水位が高い。地下水の循環プロセスに不明な点はあるが、第一砂丘の上部に発達した粘性土が遮断層となって降雨起源の地下水を貯留しているのだと考えられている。病原菌が付きづらく水はけの良い砂質土壌と浅部に豊富にある地下水、湿度の低い潮風の吹く環境を生かして庄内砂丘は現在、ネットメロンの一大産地となっている。でも最初からメロン栽培が順調だったわけでは無い。アンデス種をはじめとする地道な品種改良と篤(とく)農家による栽培方法の研究開発によりようやく軌道に乗ったものだ。言い換えればこの砂丘を護り育ててきた先人たちの汗と努力の結果が今、甘美の実を結んでいるものともいえる。
カテゴリー:さんぽみちのちしつ