さんぽみちのちしつColumn

第17話 ~道の栄枯盛衰~

2021年08月10日(火) 

 米沢から関地区(関町)・綱木集落を経て旧桧原村・喜多方市に至る米沢会津街道という古道がある。この道の歴史は恐ろしく古く、なんと平安時代からの記録が残されている。米沢から会津塗の木地や木炭・紅花などが、また、会津からは味噌醤油や菓子砂糖がこの道を通って流通し、柳津・出羽三山の参詣道としても賑わった。途中の関町や綱木集落はその宿場町として大層栄えたと云う。


 裏磐梯に通じる西吾妻スカイバレーに向かう途中、米沢市街地を突き切って船坂峠を登った先が関地区である。米沢市街との標高差は100m余。通常、峠道と言うのは上った分だけ後で下るものだと思うのだが、この船坂峠は登り切ってすぐさま山の上に平地が広がる。米沢市街地からは全く窺い知れないこの珍妙な風景に最初大いに面食らう。地区の中央を大樽川が貫き、その氾濫原が幅1km,長さ4kmほどもある平野を形作っている。大樽川流域ではこの関地区を除き開析平野の発達が乏しく、下流部の小野川温泉付近であっても平野部の規模は関よりずっと狭い。


 関地区は周辺部の多くが基盤の花崗岩やその風化土であるマサ土が分布する。花崗岩は新鮮な岩体は硬堅であるが風化に弱く、河川による浸食度も大きい。但し、通常花崗岩地帯の山間地形は樹枝状や手指状の浅くて細長い谷筋となる事が多く、関地区のようにだだっ広い氾濫原を造ることは希有である。ではなぜこの関だけがこれだけ広い平野地形となっているのだろうか?。その疑問を解く鍵は下流側の河川の狭窄部に分布する硬い泥岩(綱木層)にある。山間の河川は順調に侵食が進むと直線状のV字谷となるが、硬い泥岩は河川による浸食が進まず、浸食されやすい上流部との勾配が緩くなる。すると上流側で流れが滞り河川は曲流蛇行を繰り返すようになる。つまり洪水時に溢れた水が行き場を失い流れが右往左往と変遷して辺縁の山々を削り、加えて流れが緩やかとなったため上流からの土砂をどっさりと置いていってしまうわけだ。

 

 米沢会津街道は、かつて伊達政宗が会津侵攻の際に使ったとされ、幕末には伊能忠敬・吉田松陰やあの新撰組の土方歳三らも通った、当に日本を動かした歴史の道でもある。昭和48年、スカイバレーの開通に伴い連綿と続いていた街道としての役割も終わりを告げ、また今年三月、児童数の減少に伴い139年の時を刻んできた市立関小学校も閉校となった。人の営みなど地質年代から見れば一刹那でしか無いが、それでも平安の世から千年以上も続いた一つの歴史が今、終焉を迎えたことに、寂寞の念を禁じ得ない。

 

 

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