さんぽみちのちしつColumn
第19話 ~郡山市を興した湖~
2021年10月08日(金)
福島県郡山市は人口34万人を数え今や県庁所在地の福島市を上回る大都市となった。しかし、かつて一帯は安積(あさか)原野と言われ、不毛の大地が広がる人口僅か7千人余の寒村であったと云う。もともと降雨が少ない地域で、数本ある河川は何れも流域が狭く、干ばつの影響を受けやすいため、広大な原野は牛馬の餌となる牧草を採る入会地としてしか用途がなかった。
明治政府の重鎮であった大久保利通の進言により猪苗代湖から奥羽山脈を貫き荒涼とした安積原野に水を引く国営安積開拓事業に着手したのは明治12年。旧士族を中心に延べ85万人の労働力と当時の国家土木予算の1/3に当たる巨費を投じ、僅か3年で安積疎水の完成にこぎ着けた。また、猪苗代湖からの落差を生かして水力発電所が設けられ、その電力で製糸業や紡績業、後に化学工業の発達をもたらし、今日の郡山市発展の礎を築いたのである。
猪苗代湖は、東側は奥羽山脈に列する山々が横たわり西側は磐梯山や会津布引山を起源とする火砕流丘陵台地群によって限られた日本で4番目に大きな湖である。湖は非常に透明度の高い水を湛えており水質日本一の称号を幾度も得ている。これは流れ込む長瀬川流域に火山性の強酸性水が多くこれに水酸化アルミニウムが豊富に含まれており、湖水との中和作用で有機物や富栄養原のリンが凝集して沈殿する。つまり水道の浄水場で使われる凝集剤と同じような自浄作用が自然界のサイクルの中で確立しているのである。猪苗代湖は阿賀川水系であり会津盆地を通って日本海側のみに流れ出している。会津盆地ではほかにも優秀な水源河川が多く、そればかりか洪水の常襲地帯でもあったことより、水量的には疎水として安積野側に供給することにさしたる問題はなかった。その上、猪苗代湖辺縁でも湖面の変動により頻繁に浸水被害が発生しており、水位の安定化が渇望されていた。そこで会津側に流れ出る日橋川の上端に巨大な水門(十六橋水門)を造り湖面の高さを調整すると共に、奥羽山脈の硬岩に570mのトンネルを穿ち湖水を安積野側へと導いた。トンネル掘削にはダイナマイトや排水のための蒸気ポンプ、補強のためのセメント等、当時の最新技術が駆使されたという。こうしてトンネル数37箇所、水路52km、分水路70kmの安積疏水が完成し、寒々とした荒野が三十万石とも称される大穀倉地帯へと生まれ変わったのである。
安積疎水の建設にはオランダ人技術者ファン・ドールンの功績が大きい。現在も十六橋水門の傍らで湖水を見守るように銅像が立っている。第二次大戦末期、金属供出の趨勢の中、地元の農民らによって像が台座から外され隠されてこの難を免れた。戦後、敵国であったオランダ人の銅像を守り抜いた事が縁で、生誕地であるオランダのブルメン市と郡山市の友好関係が築かれ、昭和63年に姉妹都市の盟約を交わしている。往時、食うや食わずであったろう地元民のそれでも大恩ある技術者に対する人としての敬意の表れであり、戦争での敵味方など取るに足らない些事でしかなかったのだ。
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