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第42話 ~五百川渓谷の今昔~ 連載4周年特別号

2024年02月09日(金) 

 

 山形県の中央部、白鷹町菖蒲(しょうぶ)から大江町左沢(あてらざわ)間の最上川を「五百川(いもがわ)渓谷」と呼ぶ。当地は、置賜(長井)盆地と山形盆地とを繋ぐ河川の狭隘部で、地質的にも歴史的にも数々のトピックスがある。身近な最上川のあまり知られていないトリビアをひもといてみよう。

 

1.黒滝とつぶて石


 「黒滝」は、白鷹町菖蒲地区の最上川本流にあった岩場であり、江戸時代初期に開削されて現在は存在しない。国道287号線より分かれて置賜三十三観音の27番、高岡観音を擁する高岡地区に渡る橋梁に「黒滝橋」の名が残る。

▲黒滝橋下流-つぶて岩とうねる岩盤

 

 写真は、濃緑の樹木が茂り秋雨前線が活発になる前の頃か、渇水期で川底があらわになり、その様子がつぶさに見てとれる。川底の右岸側は、ほぼ平らな岩盤面が広がり、巨石「つぶて石」がポツンと立っている。中央の瀬を挟んだ左岸側や奥(下流側)には、流れと並行だったり斜交したりと岩盤の断面(層理)がうねるように続いている。つぶて石は、白鷹町の史跡にも指定されており、高さ3.5m,重量は50tほどと言われている。この石、鎌倉時代の豪傑・朝比奈義秀が大朝日岳のてっぺんから傍らの石をむんずと掴んで左手でぶん投げたものだとか。石には朝比奈の掴んだ指跡がくっきりと残っているそうな。さらに、思いのほか手前に落ちたと感じた彼は、別の石を今度は右手で放り投げたところ、白鷹山をはるかに越えて今の山形市まで飛んでいったとかいう、荒唐無稽な与太話が伝えられている。さらに丁寧なことに、山形市門伝に「つぶて」(礫石)なる地区が現にあり、朝比奈が投げたという巨石が祀られている。但し、山形市に伝わる巨石伝説は白鷹町のそれとは微妙に話の筋が異なっており、興味深い。

 川底にウネウネと曲線を描く岩盤は、本道寺層と呼ばれる泥岩である。本道寺層は、今から1300万年ほど前、日本列島の大半が海に没し深海の環境であった時代、ゆっくりと海底に沈降した泥が固まったものであり、広域に分布する岩盤としては、県内で最も古い堆積岩の一つである。堆積岩は、当初水平に土砂が積み重なって出来るが、時間を経る毎に、地殻運動の影響で、地層が傾動したり、うねるように波打ったり(褶曲)、千切れて段差(断層)を生じるようになる。こうして長い時間を経て変遷を繰り返した本道寺層は、最上川の急流で平坦に削り均されて、幾何学的とも言える鮮やかな地層の模様が浮かび上がったのである。地質的にはこのつぶて石のある黒滝やあゆ茶屋付近が最も古い地質で、その周辺は次第に新しい地層へと移り変わってゆく。

 

2.あゆ茶屋付近の最上川

 

 あゆ茶屋は、「道の駅白鷹ヤナ公園」の通称で白鷹町の下山地区にある、日本で最大級の常設のヤナ場が設置された観光施設である。一年を通じて様々な催し物が開かれ、特にGWの「ヤナ開き」と秋の「あゆ祭り」には大勢の観光客が訪れて活況を呈する。そのあゆ茶屋のヤナ場に降りる階段より、比較的水量の少ない時期なら写真のような風景を見ることが出来る。

▲ヤナ場奥の川底は横断方向の縞模様

 

 あゆ茶屋付近には、本道寺層がほぼ最上川に直行した方向に、また、上流側に緩く傾いて分布する。本道寺層の基となる「泥」は、土砂の供給があった当初は比較的粗い粒子が沈み、時間が経つと次第に細かな粒子へと移り変わる。いわゆる水の分級作用であり、これを幾千幾万回と繰り返すことにより、細かなウエハースのような地層が出来上がる。堆積岩の流水による浸食は、粒子の粗い部分から進みやすい。その良い例が宮崎県の名勝「鬼の洗濯板」だ。青島を囲むように広がる岩盤は、泥岩と砂岩が積み重なったものであり、日向灘の荒波で砂岩の部分が先に浸食されるため洗濯板のような奇景となった。あゆ茶屋付近の地層の模様も同じような原理で生じたものだ。

 ところであゆ茶屋の下の最上川、渇水期には河川水のほぼ全てがヤナ場に流れ込む。あゆにとっては死のロード、逃れるすべは無い。実はこのヤナ場、舟運のための河道掘削跡の深みを利用して設けられている。舟運に燃えた昔人のお陰で今のあゆ茶屋が成り立っているのだ。

 

3.西村久左衛門の執念


 江戸時代初期、最上義光が碁点・隼・三ヶ瀬の三難所の掘削により山形から酒田までの舟路を開き、舟運により山形城下は大層栄えた。一方、米の輸送にも苦労している米沢藩に対して、京の商人・西村久左衛門は、船が通れない黒滝の難所を開削すれば米沢から酒田までの水路が開け、物流が盛んになり、藩の利益は莫大なものになると進言した。しかし当時の米沢藩は財政難を理由にこれを断わり、結局、独力で河川整備を行うこととなる。元禄5年、西村は荒砥から最上領長崎(現中山町)までの川筋普請を願い出、五百川渓谷の河道整備が行われる事となった。

▲佐野原の舟道開削跡 – 全て人力掘削!

 

 工事は渇水期となった元禄6年6月から始められた。黒滝は、水面上に多くの岩が現れており、流水がそれらの岩にうち当たっては、あたかも滝のような音を響かせる勾配のある早瀬だったらしい。工事の現場には、櫓(やぐら)が建てられ、吊り上げた鉄錐を落として岩を砕く方法で通削を進めた。黒滝開削のほかに左沢までの五百川渓谷も整備し、全長はおよそ30㎞。同様の遺構としては日本最長を誇る。完成したのは翌年9月。しかし人力のみで冬季を含んで一年強の年月で完成とはあまりに速い。ある研究者は、どうも10年ほども前から実際の施工は行われていたらしいと分析している。また、舟道開削が完了した直後、西村は置賜米の運搬を一手に請け負ったそうな。綿密に商売の網を仕掛けていた京の大店(おおだな)・西村久左衛門、かなりしたたかな古狸のようだ。

 

4.五百川渓谷の川岸は不安定

 

 五百川渓谷がある一帯は、白鷹山や月山などと同じ「出羽山地」に含まれる。この出羽山地、今も僅かずつだが隆起運動が続いている。一方、最上川は流域を少しずつ浸食しながら流れ下るのだが、五百川渓谷では隆起運動と浸食のせめぎ合いにより、十分な時間を採れずに流路だけが深くなる。周辺の地質は比較的軟らかな堆積岩。結果、脆弱な地質で急勾配の川岸が出来上がる事となる。なので五百川渓谷の川岸は、斜面の安定性が担保できずに簡単に崩れる。あっちで地すべり、こっちで崖崩れと、年がら年中どこかで工事が行われている。

▲大平橋より上流左岸側、地すべり対策跡

 十数年前、朝日町の最も南側の集落「今(こん)平(ぺい)」の対岸側、白鷹町大瀬地内で大規模な地すべりが発生し、半年ほど国道が閉鎖される事態となった。現地は、最上川の川岸が長大斜面となっている部分で、国道はその中ほどに無理矢理小段を造って通している。主要幹線道路の一つと言うことで県は急遽対策工事に着手した。地すべり対策は通常、地下水を抜いたり盛土や切土で斜面を緩くしたり、杭を打つなど様々な工法を組み合わせて行われる。しかし当地は場所が狭隘で、大型の機械が必要なものや地形を大きく改変するような工法が使えず、何より早期の国道復旧が命題とされていた。そこで工費という面では不利となるが、数百本ものグランドアンカーを地中に打ち込み、その緊張力で地表の変位を縫い止めるという力業(ちからわざ)で対策を行っている。その後現在まで、とりあえず斜面は安定を保っているようには見える。しかしながら地形的には、どう考えても国道を通すに適した場所では無く、それほど遠くない将来、トンネルや大規模な堀割など、根本的な対策が必要となるだろう。

 

5.上郷ダム

 

 上郷ダムは、堤高23.5mの重力式コンクリートダムで東北電力が管理する発電用ダムである。戦後高度成長期の電力需要をまかなうため、昭和36年に建設に着手、翌37年に完成している。鉄筋コンクリートの耐久性(寿命)が50~100年と言われている中、かなりのお爺ちゃんと言える。また、最上川本流にある唯一のダムでもある。

 ダムは完成後、上流から流入する土砂によって年々埋積してゆく。上郷ダムのダム湖は総貯水容量766万㎥に対し、令和2年時点にて有効貯水容量は271万㎥(総貯水量の35%)に過ぎない。ダム本来の機能の一つ、大雨時に一時的に河川水を溜めて流水を制御し、下流域の洪水を防止するという「治水作用」の能力は、この有効貯水率に比例する。だが、現状ではその七割方、機能が低下している状態と言える。どうりで近年、雨が降るとすぐに上郷ダムの放水のサイレンが鳴る訳だ。実際には殆ど貯水マージンが無いのではと危惧している。(発電用ダムという性格上、ダム湖の運用水位を高めに保持しなければならず、緊急時の貯水マージン・治水能力が小さくならざるを得ないと云う側面もある)

▲上郷ダムの俯瞰写真と堆積土砂

 上郷ダムは、上流から供給される土砂のほか、朝日山脈から注ぎ込む朝日川が、直接ダム湖へ大量の土砂を吐き出し、浅瀬を作り出している。また、ダムがあるとダム湖だけで無くかなり上流側まで川底が浅く、流れが緩やかとなる。

 川がよどむと増えるカワザイ(似(に)鯉(ごい))が渓谷の河面を悠々と泳ぐ姿を見ると、本来の自然とは何か違うような漠然とした不安感を覚えるのは私だけであろうか。ちなみにこのカワザイ、鯉の仲間なのだが山形では下魚とされ誰も捕らない。体長も50~60㎝、中には1m近くの個体もおり鳥も近寄らない。魚としては生態系の頂点と言え、どんどん増える厄介者である。

 

6.最上川のおき土産


 上郷ダムより下流側の最上川沿いには、段丘面が一気に広がり、名産のりんごをはじめとする耕作地が続く。朝日町の北東端にある大谷地区も例に漏れず広い段丘面となっているが、ここではごく平坦な水田が連なり、軟弱な湿地帯も存在する。

 

▲大谷地区は旧河道地帯

 

 大谷地区には「秋葉山」という孤立丘があるが、これはかつて東側の川向かいにある山稜と半島状に続いていたらしい。最上川はこれを迂回するように西に大きく弧を描くように蛇行して流れ、しかも出口が地すべり崩壊などで狭く、河川水が滞留したため、山中にもかかわらず軟弱な湿地が発達したようだ。その後最上川が秋葉山の山列の一部を洗掘し、流れがショートカットして河道が大きく東に遷移した。ちなみに東側の山列の浸食面は、川岸が最大150mもの高さまで急角度で立ち上がっており、明神断崖(通称:用のハゲ)と呼ばれる景勝地となっている。この崖の地質は浅い海の時代(数百万年前)に生成した軟質なシルト岩などの堆積岩である。大谷地区の旧最上川河道の高さと、現在の最上川の高さは30m以上もの開きがあるが、岩質が軟らかであったため、最上川が急速に洗掘して流路が大きく低下したのだろう。

 最上川によるこのようなショートカット地形は、五百川渓谷に限らず数多く存在する。朝日町の中心地・宮宿地区もそうであるし、下流の大江町や寒河江市街地に接した地区にも何ヶ所も見いだせる。古い地形図で円弧状に繋がる水田地帯や滑らかな曲線を描く小崖を見つけると、数千年前の川の流れを辿ることができてうれしくなる。自分が生まれ育ったこの地の移り変わりに思いを馳せる事は楽しいし、これが単なる私の爺むさい興味で無いと思いたい。

 

-後書きに代えて


 本稿の原案は、来期入社を控えた皆さんへの講演資料が基となっている。本来、第4回を迎えるさんぽ道特別号については、別の話題を予告していた。だが一部社員の方より、くだんの講演内容をちゃんと知りたかったと言う声や、私自身、せっかく集めた資料をこのまま破棄するのは勿体ないという気持ちもあり、大幅に加筆・加図して再登場の運びとなった。世の中3R運動を推進しなければならない。資源の少ない日本、省資源(Reduce)・再利用(Reuse)・再資源化(Recycle)の精神が大切である。とかなんとか云々(うんぬん)・・・
まぁ、本音は忙しくてじっくりまとめる余裕がなかっただけでして。平にご容赦を。次回こそは、辰子姫と玉川毒水に挑みたい。

 

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