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第46話 ~白鷹山と絹の道~

2025年01月10日(金) 

 白鷹山は山形県のほぼ中央部にある火山で、鳥海山や月山などと同じく出羽山地に含まれる。奈良時代の高僧・行基がこの地を訪れた際、どこからともなく白い鷹が舞い降りると一面が荘厳な光に包まれたという古事より、白鷹山と呼ばれるようになったと云う。また、この山を信仰した米沢藩の名君、上杉鷹山の名も山名に由来しているのだとか。山頂には、日本五大虚空蔵尊に数えられる福満大虚空蔵が祀られ、養蚕と農業の神として人々に篤(あつ)く信仰されてきた。


 ところでこの白鷹山、非常に複雑な形状をしており、見る方向により全く違った印象を受ける。長井や米沢方面から見れば、西黒森山・白鷹山・高森山と並ぶなだらかな稜線が連なった穏やかな姿を見せる。対して逆方向の山形・村山側は、片倉山や東黒森山などの山々が不規則に折り重なるように現れ、その間に畑谷や簗沢など、隠れ里のような集落が点在する。また、近傍の県民の森付近では緩やかな丘や浅い谷地形が連なり、その合間に大小20余もの湖沼が散らばる非常に変化に富んだ景観となっている。

 

 白鷹山の火山活動は古く、70~80万年前頃とされる。火山の種類としてはデイサイト(粘度の高い熔岩の白っぽい火山岩)質の成層火山であり、概して円錐形に近い尖った山型となる事が多い。かつての白鷹山は、現在より数百mほども高く、その山頂部は現在より北東側にかなりずれた位置にあったらしい。この古白鷹山は後年、山頂から北東側一帯にかけて大崩壊を起こす。その土砂は、流山(ながれやま)と呼ばれる小山や丘陵地を作りながら広範囲を覆うように広がり、一部は山形盆地の辺縁部まで達している。また、流山の間の凹部に水が溜まることにより、後に数多(あまた)の湖水になったと考えられている。

 

 この山体崩壊の要因は、火山の水蒸気爆発もしくは巨大地すべり崩壊の何れかと考えられてきた。前者は明治期に大爆発した会津磐梯山を彷彿とさせるが、白鷹山に当てはめると活動期(約70万年前)に崩壊した土砂の残存地形としては周辺の浸食度が小さすぎ、経過年代にそぐわないと言われてきた。近年、白鷹山を横断するように大規模な地下探査が行われ、併せて湖沼群の底部土質の年代測定なども進められたことにより、周辺の地質構造や地形の成り立ちが次第に分かってきた。それによれば、湖沼の基となる流山の生成は約10万年前頃とされ、火山の活動期とは大きく異なる。つまり白鷹山の山体崩壊は火山活動によるものでは無く、後者の地震や地下水変動による大規模な地すべりであったようだ。また、探査の結果には白鷹山を横切るような構造線(大規模な断層)がある可能性が見いだされ、その変動が地すべりの一因であったとも言われている。白鷹山は、かつて優麗な孤立峰であったものが、巨大な山体崩壊により大きく姿を変えた。その結果、多くの湖沼や湧き水に恵まれ、郷愁(きょうしゅう)に満ちた山里の原風景が生まれたのである。

 

 県民の森の南西側、白鷹山との間に大平・嶽(たけ)原(はら)という今は住人も殆どいない廃れた集落がある。集落の背後は白鷹山山頂まで一気に駆け上がる斜面となっており、これがくだんの巨大地すべりの滑落崖と見られる。かつて山形市の門伝より、これらの集落を通って白鷹町荒砥まで至る狐(きつね)越(ごえ)と呼ばれる旧街道があった。(現在も「狐越街道」の名は残るが、本来はこの旧街道が本筋である)この街道は養蚕が盛んであった荒砥にむけ、飼料の桑の葉を運ぶため多くの牛馬人足が行き来した。山形と荒砥では桑の葉の展葉が一週間ほども異なることより、早採りの桑を荒砥に運ぶため、1日2往復する猛者もいたのだとか。荒砥口には、桑の葉を包んだコモの束がずらりと二百m以上も並んだものだと云う。隆盛を極めた養蚕(絹)の道であったが、大正12年、国鉄長井線(現・フラワー長井線)の開業と共に物流が鉄路へと移り、狐越の往来は一気に激減することになる。何軒もの茶屋や宿が繁盛するなどあれほど賑わった山間(やまあい)の街道はたちまち衰退し、狐の術がとけるかの如く人々の記憶からも忘れ去られていったのである。

 

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