さんぽみちのちしつのアーカイブ

第26話 ~日本のチベットとよばれた村~

 西川町の西部、朝日山地の山懐に抱(いだ)かれるように大井沢地区がある。数年前、僻地で活躍した女医の生涯を綴った「いしゃ先生」と言う映画が公開されたが、その舞台となった村落でもある。付近には大朝日岳を源とする寒河江川が北流し、その左岸側に田畑が開けぽつんぽつんと集落が点在している。集落の背後は緩やかな丘陵地が連なるが、西側で次第に険しくなり遠く朝日山地の稜線へと続く。対する右岸側は小高い起伏山地が並び、川岸から直ぐに単勾配の急な斜面が山頂まで駆け上がる。

 

 大井沢地区の寒河江川は南北に流路が直線状に延びるが、これは古い大規模な断層と考えられている。福島県の南東部、棚倉町を通り北北西方向に延びる「棚倉構造線」と呼ばれる大断層群がある。関東以北の北東日本は地質的な特徴より大きく5つの地帯に分けられ、山形県のほぼ全域は阿武隈帯と云う地質帯に含まれている。その西隣には北関東から新潟を含む足尾帯が接し、その境界を成すのがこの棚倉構造線だとされており、大井沢の断層はこの棚倉構造線の延長だとする説がある。ところがこの構造線、福島県内ではだいたいこの辺を通っているのだろうなぁ、という位置が分かっているのだが山形県に入ると途端にあやふやとなる。朝日山地を挟んで幾つもの断層に枝分かれし、メインとなるルートが特定できてない。だが少なくとも大井沢の断層は県内でも有数の規模であり、北上して月山火山に阻(はば)まれるが、それを乗り越えた延長上には庄内町を流れる立谷沢川に再びまみえる。この立谷沢川も南北に延びる直線状の河川で断層谷とされている。つまり、大井沢の断層とこの立谷沢川の断層は本来、連続する一つの構造線であり、後から月山が噴火して火山ができたのだ。これらの断層が最も活動したのは新第三紀の中期、今から一千万年ほども前の事であり、月山が噴火して山になったのが数十万年前。月山などごくごく若造のニキビみたいなものに過ぎない。また大昔、大井沢の谷底は細長い湖(大井沢湖)だった時代があり、集落周辺のなだらかな地形を作る堆積岩類がその時に生成したと考えられている。

 

 かつての大井沢村は近郷の商業地として今の大江町左沢(あてらざわ)と結びつきが強かった。左沢までの道のりは約20㎞。距離もさることながら途中には大井沢峠のきつい山越えがある。山道での荷物の運搬は人肩で担ぐか馬に括り付けるしかなかった。昭和初期の地形図には大井沢の主部から今の大江町柳川まで、全長約6㎞もの索道(ロープウエイ)の存在が記されていた。この索道、詳細な資料が一切残されていないが、おそらくは山菜など農産物の出荷や左沢で購入した品物を山越えするために設置されたものだろう。だがもしかしたら例年3mもの積雪で外界と閉ざされる冬季、人命を維持するためのそれこそこれが「最後の頼みの綱」であったのかも知れない。

 

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第25話 ~黄金の九十九島~

 「象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)がねぶの花」芭蕉が俳諧紀行文・奥の細道に収めた一句である。西施は中国四大美女の一人で、初夏の夕刻、密やかにそして艶(あで)やかに咲く合歓(ねむ)の花を引き合いに、雨の象潟は艶然とした陰の美しさがあると詠(よ)んでいる。


 象潟町は秋田県の南西端で現在は「にかほ市」に含まれている。鳥海山と日本海に接し、ダイナミックな景勝地を数多く抱える自治体である。紀元前四百年頃、鳥海山の大噴火による山体崩壊の砕屑流が日本海に流れ込み、浅い海と流山(ながれやま)による幾多の小さな島々ができた。(砕屑流・流山については拙稿第22号(特別号)にて詳述)やがて浅海は砂丘に仕切られ潟湖となり、小さな島々には松が生い茂った。こうして、晴れやかな海原に広がる男性的な松島に伍(ご)する、穏やかな艶っぽい女性的な象潟の風景が生まれたのである。この象潟は古(いにしえ)の時代より九十九島・八十八潟が景勝地・歌枕の地として知られ、平安時代末期の武人で歌人でもある西行(さいぎょう)が訪れたとの記録が残っている。後に先人を偲んで芭蕉や一茶・蕪村、近代では正岡子規などの名だたる俳人が相次いでこの地を訪れており、文化人の巡礼地として名を馳せた。


 江戸時代末期、文化元年(1804年)の象潟地震により、一帯の地盤は一気に2.4mほども隆起した。その結果、島々が点在する浅い潟湖が一夜にして数多(あまた)の丘が散在する平坦な陸地へと変貌したのである。この地を治めていた本庄藩はこれを契機に、陸化した新たな平野部を広大な水田へと開墾すべく、点在する島々を切り崩す整備計画を進めようとした。古い凝灰岩でできている松島の島々と異なり、象潟のそれは鳥海山の砕屑流であり基本は土砂である。人為的に切り崩して均すことなど造作も無い事であった。この暴挙に対し歴史的な景観を守らんと地元の寺社・蚶満寺(かんまんじ)の住職が立ち上がり、己が命を賭(と)して抗議した。次第に民衆の保存運動の気運も高まり、藩による島々の破壊を取りやめとする方向に追い込んだのである。


 象潟は今も水田に大小百余の小島が浮かぶ美しい景観が護られている。春、水田の水面(みなも)が鏡のように天空を写し、彼方に雪を抱く鳥海山が聳(そび)える。秋、海原と見まごう黄金の稲穂の波に小島が浮かび、見事な古の眺望がよみがえる。自然の織りなす四季折々の景観を楽しめる象潟であるが、世人への知名度はそれ程高くない。ためしに「象潟の九十九島って知っているか?」と若手社員の何名かに尋ねてみたが結果は全滅であった。我々にとって日帰りでも行ける象潟の地。遠くの別嬪(べっぴん)さんをあがめるのも良いけど、近くの良い人を知ることも大切だと思うんだ。

 

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第24話 ~政宗の夢~

 海岸沿いに荒波で生じた土砂の高まりを浜堤(ひんてい)と呼ぶ。浜堤は砂礫や砂地であり、水はけが良く、防風林の松林が続きその間に漁村が点在しているような土地である。仙台平野の沿岸部、その浜堤の背後に一本の運河があるのをご存じだろうか?。阿武隈川の河口から始まり、海岸線に沿うように北上し塩釜湾まで延々36㎞にも及ぶ。この運河、あの伊達政宗の時代より建設が始まったことより、政宗の諡(おくりな)から貞山堀または貞山運河と呼ばれている。実は塩釜(松島)湾から更に北上し東名運河・北上運河と辿(たど)れば、石巻市の北上川河口まで続いており、総延長49㎞に達する日本最大の運河系でもある。(現在は一部が埋め立てられて不通となっている)


 政宗時代の仙台藩は今の宮城県全域の他、岩手県の南部や福島県の一部、合わせて60万石余を治め、物流の一大拠点として栄えた。所領及びその周辺各地から仙台に向けて大量の物資が運ばれたが、舟運(しゅううん)がその役の大半を担っていた。しかしながら、吃(きっ)水(すい)の浅い川舟では外海に出られず、河口部の港でいちいち海用の大型船に物資を積み替えなければならない。これが時間的にも費用的にも流通上の大きなネックになっていた。そこで川舟のまま仙台城下や塩釜湾まで物資を運搬する手段として長大な運河建設の構想が生まれたのである。また、運河は未開の湿地であった阿武隈川から名取川河口周辺の新田開発のための放水路としての役も担った。このため付近には平野部から続く河川が貞山堀に注いで終わり、海まで流れ出ていないものが何本もあって興味深い。貞山運河が着工されたのは政宗の晩年1660年頃、最終的にすべての運河が繋がったのは明治期に入った1887年であり、完成まで実に200年以上もの時が流れた。だが皮肉にも運河の完成とほぼ時を同じくして今の東北本線が開業し荷役の主流が鉄路に移ったため、物流の大動脈としての責務を果たさないままその存在意義を失うことになったのである。

 近代の貞山堀は運河としては使われなくなったが、漁港の船だまりとして、また一部は、シジミ漁・しらす漁の漁場として利用されていた。また、遊歩道・サイクリング道路の整備が進み、大都市近郊の散策林としても使用された。しかしながら2011年3月に発生した東日本大震災の大津波により沿岸集落や松林のほぼすべてが流失してしまい、現在では見通しの良い廃村のような原野に、水路が一本真っ直ぐに走っているだけのうら寂しい風景となってしまった。

 江戸時代初期からの土木構造物が、ほぼ完全な姿で今に伝えられている例はそう多くない。文化的遺産として保護すべきという動きもあるが、完全に役目を失った構造物をはたしてどの程度護れるものなのか。もしかしたら今見ておかないと、永久に失われてしまうはかない夢なのかも知れない。

 

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第23話 ~河の流れと共に~

 図は新庄市本合海付近上空から北方を俯瞰したイメージである。北上する最上川は南下してきた鮭川を合わせて西に向きを変え、最上峡を経て庄内平野へと向かっている。当地の最上川は西へ東への大蛇行をくり返しており、陸地とそれを隔てる河道がまるで指と指とを組み交わすように折り重なっている。また、合流する鮭川も不規則な曲流を繰り返しくるんくるんと弧を描く。千鳥足ならぬ千鳥川、いや名付けて最上千曲(ちくま)川(がわ)か。でもなぜ広くもない平野部でこんな迷走河川ができたのだろう?
河川の流路はある程度勾配があると直進性が強いが、勾配が緩く流れが穏やかになるほど蛇行・曲流し易くなる。河川の流れは氾濫によって自然堤防と言われる堆積物の高まりを生じるが、次の洪水時にはより低い流路を探して破堤し、前回の自然堤防を避けるように新たな流れを作る。つまり、平野部の河川は、人為的なコントロールがない限り氾濫の度に絶えず変遷(へんせん)してゆくものなのである。


 本合海付近は新庄盆地の西端で、標高的に内陸盆地の最も低い地点でもある。大蔵村の主部から当地を経て、鮭川村・真室川町にかけての低地帯は断層によって落ち込んだ「地溝(ちこう)」である。これに対し下流の最上峡は出羽山地に含まれ、現在も僅かずつ地盤が隆起し続けている。最上峡は地盤の隆起と河川の浸食のせめぎ合いで川底の下刻が進まない。出口側の高さが変わらないため上流側の本合海周辺には内陸全域から集まった土砂が貯留する事になり、また最上峡で河道が狭窄(きょうさく)して水流が緩やかとなる。その結果、この地区に真っ平らな埋積平野が形成され、右往左往する河川の曲流蛇行帯ができあがったのである。


 この地は地形上の特性より洪水の被害に遭いやすい。一昨年7月に県内を襲った集中豪雨の際も、平野部の多くが水に浸かり、特に水稲は壊滅的な被害を受けた。古(いにしえ)より同様の水害を幾度となく受けてきた暗い歴史を持つが、それでも人々は集落を受け継ぎ田畑を護り育ててきた。水害に遭いやすい河川沿いの土地と言うのは、一方で肥沃で実り豊かな土であることの左証(さしょう)でもある。住民は河の恵みを受けつつ、力を合わせて堤防を築き河と共に生きることを選んだのである。


 本合海はかつて舟運(しゅううん)で栄えた川港の一つであり、あの芭蕉と曽良もここから乗船し庄内へと向かった。当時、川舟が庄内と内陸を行き来する唯一の交通手段であったが一般人が気軽に利用できるようなものでは無く、乗船の手配にも苦労したと伝えられている。日本全国どこへでも気の赴くまま出かけられる今のご時世を芭蕉が見たらどう思うのか。五月雨や・・などと詠む前に行き過ぎてしまう。案外、苦労して旅をした昔の方が良いというのやも知れぬ。

 

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第22話 ~お気軽な高原~ 連載2周年特別号

 

 山形市の東側、テレビ局の送信所が建ち並ぶ高台周辺を西蔵王地区と言う。蔵王連山の西端、瀧山より続く緩やかな斜面が、送信所の背後(神尾地区)で一旦平らになって、その後再び小起伏をくり返しながら桜田地区(東北芸術工科大学付近)へと下ってゆく。この周辺は「西蔵王高原」とも呼ばれ、なだらかな斜面に放牧場や大根・キャベツ・ソバなどの畑が点在し、市街地にほど近いとは思えぬのどかな山里風景が広がっている。神尾地区と山形市街地の標高差は約400m。市街地の直ぐ側で、また標高もそれ程高くない事より「高原」と名のるにはちとおこがましい気もするが、瀧山の偉容を仰ぎゴミゴミした市街地が直接見えない地形より、お気軽に天空人の雰囲気を楽しむことができる。

 

 さて仰ぎ見る瀧山であるが、今から約100万年前、蔵王連山としては最も初期に活動したとされる火山である。付近は当時、「千歳山」と同じようななトンガリ小山がポコポコと点在する緩やかな高台であったようだ。その一角から発した瀧山は噴火をくり返し、周辺にその噴出物ををまき散らしながら次第に標高を高めていった。年代はぐっと下り約7万年前、あの蔵王の泥流(酢川砕屑流)が発生した。これは今の蔵王温泉街付近を火口とする噴火活動により、大量の火山噴出物が山肌を一気に駆け下ったもので、山腹~山麓部を最大100m余もの堆積物が覆い尽くし、なだらかな傾斜地形を造った。その先端は須川をまたいで反対側の久保手地区まで達しており、現在の蔵王みはらしの丘一帯は、砕屑流の末端台地である。ここで少し学術的な説明を加えると、本来の「泥流」は、火山熱で融けた氷雪等により火山噴出物が土石流状になってドロドロと流れ下るものとされている。しかし、これまで「蔵王の泥流」と呼んでいた地形や地質と泥流の特性が一致しないため、現在ではこれを「酢川砕屑流」とか「岩砕流」とかと表記されることが多い。イメージ的には雲仙普賢岳のあの火砕流(火砕サージ)と同じような現象であったようだ。

 

 西蔵王地区も火山砕屑流(火砕流)によって形成されたものだ。但し、酢川砕屑流(これまで蔵王の泥流と呼んでいたもの)とは全くの別でこれを「神尾砕屑流」と言う。これは酢川砕屑流より多少古く、瀧山の西壁を火口としたものだ。神尾砕屑流は酢川砕屑流よりはずっと小規模であったが、それゆえに活動の全体を見わたすことができ、その特徴を掴みやすい。
・西蔵王の特徴その1— 土砂は斜面を駆け上がった?
西蔵王地区の中心部「神尾地区」は、集落中心部よりも市街地側のフチ(TV送信所付近)の方が、標高的に高く、全体として鍋底のような緩やかな窪地となっている。火山砕屑流(火砕サージ)は猛スピードで山肌を下る。その際、大きな岩塊や小さな岩山などがあると、土砂はそれを乗り越えようとし、それを核として砕屑物の高まりができる事がある。こうして出来た小山は砕屑流斜面のただ中に、上流から移動してきたように見える事から、これを流山(ながれやま)という。TV送信所付近の高まりも流山の一種だろう。であれば、その地下に核となる岩塊や岩山が隠れているはずだ。おそらく、千歳山と同時期の岩脈(小さな火山性の岩山)が潜んでおり、それを砕屑流が乗り越えようとして盛り上がったものであろうと推測する。

 

・西蔵王の特徴その2— 神尾地区は天空の湖だった?
特徴の二つ目は、神尾地区全体がかつて大きな湖(仮称・神尾湖)の時代があった事である。神尾集落付近は火砕サージが通り過ぎて浅い窪地となり、加えて北部(今の土坂集落付近)に流れ込んだ土砂で自然の土堤ができ、堰き止められて水が溜まったようだ。神尾集落付近の地層には、湿地性の堆積物が何層も残されておりこの一帯がかつて湖沼の底であった事を物語っている。後世、堤体となっていた土堤が決壊し龍山川として市内方向に流れ出し、今の地形(湖の底)が現れたのだろう。逆に言えば湖としての環境が長かったため、川で削られたものとは異なるなだらかな地形が残されたとも言える。

 

・西蔵王の特徴その3— 西蔵王公園は巨大な地すべりのあと
TV送信所や展望台のある地区の更に西側、落差で約80mほど下がった地区に西蔵王公園が広がっている。緩やかに広がる森林を切り開いた広大な土地に各種遊具やアスレチック、バーベキュー広場、キャンプ場などが整備されており、子供連れの若い家族に人気が高い。
この西蔵王公園は、TV送信所や展望台のある高台から急斜面で下った先の準平原で、まるでTV送信所のある高さからストンと滑り落ちたような雰囲気がある。TV送信所のある高台はゆったりと弧を描く崖のフチのような地形であり、その公園側(市街地側)が急斜面となって落ち込んでいる。落ち込んだ地盤面はやや凸凹のある緩斜面となり、多くの湖沼が発達した。地形的な特徴よりこれらが典型的な地すべり上部の滑落崖と、頭部の崩壊地形の組み合わせである事が分かる。

 

実は神尾砕屑流の発生直後、今のTV送信所の高台はもっと西側まで延びていたようだ。神尾砕屑流は猛スピードで斜面を駆け上がり、流山の障害物を乗り越えてあらぬ彼方へ砕屑物を放出した。その後、成長しすぎた砕屑物の丘は流山の核を境にして大規模な地すべり崩壊を生じたものと考えられる。

 

・西蔵王の特徴その4西蔵王の南側に湖沼が集まっているワケ

西蔵王地区には、羽竜沼・三本木沼・古竜沼など大小十数個の湖沼があり、そのほか西蔵王公園内にも大小の沼が散在している。それらの多くは西蔵王の南側(今の山形市野草園の付近)に集まっている。なぜこの一角に湖沼が密集しているのだろう?。

 

神尾砕屑流の本体は、今の展望台やTV送信所付近を中心として流れ下ったが、猛スピードで駆け抜けたため地表部は平滑でなだらかな地形となった。これに対し湖沼の偏在する南側地域は砕屑物の供給も少なく、速度もそれ程速くなかったようだ。活動としては火山泥流や大規模な土砂崩れに近い性質であったようで、土砂がドロドロと流れ出して広がったような状態となり、堆積面に凸凹が生じた。それらの凹んだ部分に水が溜まって、数多くの湖沼が生まれたものと見られる。

 

 西蔵王全体としては、かつての神尾湖は砕屑流がえぐった跡の大っきな湖、西蔵王の南部には泥流で流れ出した凸凹面に湖沼が発達し、西蔵王公園周辺にも地すべりで割れた窪みに小っちゃな沼が点々と生まれた。山の上の湖沼は出来かたにも一つ一つの物語りがある。

 

 西蔵王高原の生い立ちや特徴についてまとめてみた。地学的な視点をもって西蔵王を眺めると漠然と見ていた風景がまた違った意味合いを持ってくる。今回、神尾砕屑流に関して掘り下げてみたが、噴火した78万年前など地球の歴史からしたらつい昨日のようなものだ。活火山である蔵王はこれからも変貌を続けてゆくことだろう。だが火山の成長を見守るには人間の一生などなんと短いことか。

 

 ・後書きその1

蔵王火山の研究では、その権威として大場与志男・伴雅雄の両博士がおられる。弊社でも火山噴出物のトレンチ調査などでお世話になっており、蔵王に関して素人が迂闊なことは言えない。だが今回、本稿を書くにあたり蔵王の関係文献を読み漁ったところ、西蔵王関連の資料が殆ど世に出てない事に気付いた。幸い?にして私自身は両博士と直接の面識は無い。当稿は、一般の方が身近な地形や地質に興味を持って頂けるように、気軽に読める取っつきやすさを身上としている。なので説明が不足していたり正確で無い(裏付けが無い)ことは重々承知している。だが怪しい推論も言った者勝ちと云う事で。万が一、御大がこの拙稿を目にすることがあっても、笑って看過して貰いたいものである。(弱気・・・)

 

・後書き-その2
 TV送信所のある高台の北端に、かなり大きな異形(いぎょう)のコンクリート構造物がある。何でも1980年頃、とある男性が私財を投げうって建設に着手したとされる「仏舎利塔」とのこと。仏舎利塔とはお釈迦様の遺骨を納める仏塔とされ、まぁ、平たく言えば世の平和を願った仏教式の大っきなモニュメントである。

 

 男性は、その建設を見守りつつ近くに庵(いおり)を結んで読経の日々を過ごしておられたが、志半ばで亡くなられたようだ。くだんの仏舎利塔は建設途中でうち捨てられ今では廃墟のようになっているが、辺りの草刈や最小限の手入れは今も継続されている。いわゆる遺構では無く、建設中断中と言ったところか。永井設計の社長様もドローンでの鮮明な空撮動画をYouTubeに上げておられる。おどろおどろしい雰囲気と故人の執念のようなものを感じられ、陽光きらめく西蔵王のまた違った一面を知ることが出来る。興味のある方は“西蔵王”“仏舎利塔”で検索してみてほしい。

 

・筆者のつぶやき
 本稿の原案はさんぽみちの特集号向けに昨年正月!に執筆したものだ。本来、この駄文が特別編になるはずだったが、「面白くない」のでボツネタとしてお蔵入りした。で急遽、一般ウケしやすそうな「平塩の塩」を書いて凌(しの)いだのである。本稿は中身がもともと火山学もどきであるため、内容が固い。正確に伝えようとすればするほど文章が混み入り、学術書のようになってしまうのだ。私自身、正月の酒を飲みながらあれこれ思量推敲し、酒と文章の双方で酩酊しますます混迷の度を深めた。
当コラムは文章の遊びや取っ付きやすさを優先し、要点を端折る・説明をすっ飛ばす・憶測をさも見てきたように語る・都合が悪いことには触れないなどの工夫(暴走とも言う)を駆使して少しは読みやすくしたが、私の筆力ではこれが限界である。あきらめずに読み解いてくれるとうれしいな。(最後は丸投げ!)

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第21話 ~硫黄泉は懐古の香り~

国土地理院の地形図で朝日町と白鷹町の境、最上川の右岸側に温泉マークが示されていることをご存じだろうか?場所は大船木橋のやや下流側、国道287号線脇の崖下で国道を走っている分には全く分からない。かつてここには杉山温泉不動の湯という名前だけは立派な入浴施設があったらしい。無色透明の沸かし湯で少し硫黄臭があり、銀山の温泉と似ていたとも云う。


五百川(いもがわ)渓谷周辺及びその延長上には似たような泉質の温泉が多数存在する。温泉として登録されているものだけでも長井温泉・下山温泉・五百川温泉・間沢温泉・小山温泉などがあり、そのほか未登録の湧泉や同様の水井戸が相当数存在するようだ。何れも冷鉱泉で硫黄分を含む単純泉となっている。ところで火山地帯でも無い当地で、これらの鉱泉に含まれている硫黄分はどこから来たのだろう。硫黄の化合物は数十種類あると言われるが、いわゆる温泉の硫黄臭は硫化水素のそれである。その硫化水素の起源は、①火山性ガスに含まれるもの、②有機物の分解によるもの、③硫酸還元菌によるものの3タイプに分かれるそうだ。


①の火山ガスは分かりやすい。草津や蔵王温泉に象徴される酸性の高温泉となる事が多く、温泉の代表格と言えるが、湧出環境が限定的で実際の数はそれほど多くない。
ひとつ飛ばして③の硫酸還元菌によるものは古生層などの古い地層に多く、地中に貯留した硫酸イオンを還元する細菌によって生成するもので、アルカリ性の冷泉となる。地層が若い東北では、殆ど無いタイプである。


平地における硫黄泉の多くは②の有機物の分解によるもので、弱アルカリ~中性を示す。有機物の分解があまり進んでいないものは褐色のモール泉となり硫黄分の少ない単純泉となる。(寒河江市民浴場・山辺温泉など)対して、分解が進むとほぼ透明な塩化物泉となり硫黄分が増加する。(花咲か1号泉・舟唄温泉など)これらは地盤の堆積時に海水と共に取り込まれた有機物が長い時間をかけて分解されて硫化水素を発生するもので、近年の大深度ボーリングにより、塩分と共に湧出する温泉の大半がこのタイプである。塩水は比重が大きいため、地表部の湧泉や浅い井戸の硫黄泉は塩分を含まない単純泉となる。


幼少の頃病弱だった私は、毎年、祖父母について蔵王温泉(高湯)の湯治宿に通っていた。掘り込みの湯船だけがある殺風景な風呂場や雑然とした炊事場、硬貨を入れてハンドルを回すと10分だけ使えるガス台、怪しげな店もあった賑(にぎ)やかな高湯の町並み。硫黄泉の香りに琥珀色のゆったりとした時の流れと共に、他界して久しい祖父母の面影がノスタルジックによみがえる。

 

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第20話 ~及位と主寝坂~

 山形県の北端、秋田との県境付近に及位(のぞき)という一風変わった地名があり、JRの駅名にもなっている。及位は真室川流域の上流端にあり、河川が県境に沿ってぐるっと半回転するような流路をたどっている。その延長上に馬蹄形に連なる山列が続いており、山列の内側は浅く窪んだなだらかな丘陵地が広がっている。山列の中程に「女甑」「男甑」(甑:こしき)の二峰の山塊がそびえ、その麓を旧矢島街道(矢島は秋田県由利本荘市の旧地名)の山道が通っている。


 かつてこの付近一帯は熊野や出羽に並ぶ山岳修験道の聖地であり、麓に住みついた修験者たちはより位の高い山伏になるべく厳しい修験の道に身を置いていた。その行(ぎょう)のひとつに甑峰の断崖絶壁を逆さに吊され、崖の横穴をのぞき込み恐怖と戦いながら己の汚れを悔い改める「のぞき行」があった。後にそれを究めた修験者の一人が朝廷より高い位を与えられたことより、のぞきで高い位に及んだ「及位」の地名が生まれたたのだと云う。


 ところで円形状に山壁で囲まれたこの地形、どうやってできたのだろう?私はこれが拙稿vol.16でも述べたものと同様、一種のカルデラ(爆裂火口)の跡ではないかと思っている。つまり女甑山・男甑山が火口壁(外輪山)で前森山がその中央火口丘に相当するのだ。但し、その推論には不自然な点もある。カルデラは地下がスカスカになるので重力値がほかより僅かに小さい「ブーゲー異常」になる事が多いが、この地区にはそれが当てはまらない。カルデラ(と思われる)内部も外側も重力値に殆ど差が無いのである。実はカルデラには機構別に何種類かあり、大きく陥没型と馬蹄形型に分かれる。高畠元和田の陥没型カルデラと違い、馬蹄形カルデラは火山の山頂部に生成されることが多く、噴気が抜けやすくまた、マグマの供給量が多いため地下の密度が高くブーゲー異常を生じにくいのだ。加えてカルデラ内部も後年の度重なる地すべりで均され、すっかり火口としての地形や地質的な特徴が見えなくなってしまっている。但しこれは全くの私説であり与太話に近い。いつかこのこの説を裏付ける研究結果でも出てくれればうれしいな。


 及位の近くに主寝坂(しゅねざか)というこれまた変わった地名がある。かつて、戦で矢島城が攻め落とされる寸前、お殿様が不憫に思った娘(姫)を落ち延びさせようと矢島街道に送り出したそうだ。慣れぬ山道で疲れたある晩、連れの武人が少し離れたところで休もうとしたところ、お姫様が寂しがってどうしても離れてくれず、寄り添って寝ている内に男と女の仲になってしまった。つまり、主と寝てしまった峠道で主寝坂となったのだという説がある。その真偽のほどは定かでは無いが、地名には過去の伝説やいわれを表したものも多く、かつての人々の暮らしぶりや風土を知る有力な手がかりとなる。伊達や酔狂で変わった地名が生まれたわけでは無いのだ。

 

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第19話 ~郡山市を興した湖~

 福島県郡山市は人口34万人を数え今や県庁所在地の福島市を上回る大都市となった。しかし、かつて一帯は安積(あさか)原野と言われ、不毛の大地が広がる人口僅か7千人余の寒村であったと云う。もともと降雨が少ない地域で、数本ある河川は何れも流域が狭く、干ばつの影響を受けやすいため、広大な原野は牛馬の餌となる牧草を採る入会地としてしか用途がなかった。
 
 明治政府の重鎮であった大久保利通の進言により猪苗代湖から奥羽山脈を貫き荒涼とした安積原野に水を引く国営安積開拓事業に着手したのは明治12年。旧士族を中心に延べ85万人の労働力と当時の国家土木予算の1/3に当たる巨費を投じ、僅か3年で安積疎水の完成にこぎ着けた。また、猪苗代湖からの落差を生かして水力発電所が設けられ、その電力で製糸業や紡績業、後に化学工業の発達をもたらし、今日の郡山市発展の礎を築いたのである。
 
 猪苗代湖は、東側は奥羽山脈に列する山々が横たわり西側は磐梯山や会津布引山を起源とする火砕流丘陵台地群によって限られた日本で4番目に大きな湖である。湖は非常に透明度の高い水を湛えており水質日本一の称号を幾度も得ている。これは流れ込む長瀬川流域に火山性の強酸性水が多くこれに水酸化アルミニウムが豊富に含まれており、湖水との中和作用で有機物や富栄養原のリンが凝集して沈殿する。つまり水道の浄水場で使われる凝集剤と同じような自浄作用が自然界のサイクルの中で確立しているのである。猪苗代湖は阿賀川水系であり会津盆地を通って日本海側のみに流れ出している。会津盆地ではほかにも優秀な水源河川が多く、そればかりか洪水の常襲地帯でもあったことより、水量的には疎水として安積野側に供給することにさしたる問題はなかった。その上、猪苗代湖辺縁でも湖面の変動により頻繁に浸水被害が発生しており、水位の安定化が渇望されていた。そこで会津側に流れ出る日橋川の上端に巨大な水門(十六橋水門)を造り湖面の高さを調整すると共に、奥羽山脈の硬岩に570mのトンネルを穿ち湖水を安積野側へと導いた。トンネル掘削にはダイナマイトや排水のための蒸気ポンプ、補強のためのセメント等、当時の最新技術が駆使されたという。こうしてトンネル数37箇所、水路52km、分水路70kmの安積疏水が完成し、寒々とした荒野が三十万石とも称される大穀倉地帯へと生まれ変わったのである。
 
 安積疎水の建設にはオランダ人技術者ファン・ドールンの功績が大きい。現在も十六橋水門の傍らで湖水を見守るように銅像が立っている。第二次大戦末期、金属供出の趨勢の中、地元の農民らによって像が台座から外され隠されてこの難を免れた。戦後、敵国であったオランダ人の銅像を守り抜いた事が縁で、生誕地であるオランダのブルメン市と郡山市の友好関係が築かれ、昭和63年に姉妹都市の盟約を交わしている。往時、食うや食わずであったろう地元民のそれでも大恩ある技術者に対する人としての敬意の表れであり、戦争での敵味方など取るに足らない些事でしかなかったのだ。

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第18話 ~絶景の対価~

 米沢市から西吾妻スカイバーレーで県境を越してすぐの裏磐梯地区は、我々山形県人にとっても魅力的な観光エリアのひとつである。濃密な樹林と散在する湖沼のコントラストは、季節毎に違った風景を見せ、訪れる人々の目をを飽きさせない。裏磐梯最大の湖・檜原湖での、全面凍結した湖面に穴を開け、ワカサギ釣りに興じる様子は真冬の風物詩としてつとに有名である。


 県境を越えると檜原湖の背景に雄大な磐梯山を望むことが出来る。磐梯山は表の猪苗代町側から見ると整った穏やかな地貌であるが、檜原湖側の裏磐梯は中央が大きく馬蹄形にえぐれた荒涼とした光景を見せつける。この山は2~3万年毎に、活発な火山活動を繰り返す複合成層火山(活火山)であり、三万年前の噴火では山の南西側、現在の磐梯町方向へ大量の火山砕屑物を発生させ、これが猪苗代湖生成の発端となったとも言われている。


 明治21年7月15日の朝に突如発生した明治の大噴火は僅か2~3時間ほどの間に山の地形を大きく変えるほどの山体崩壊を生じた。崩壊土量は15×10の8乗立方メートル(一辺約千百mの立方体に相当)に達し、その膨大な土砂が土石流やラハール(火山泥流)となって山塊東側の長瀬川とその支流部に流れ込み周辺を埋め尽くした。裏磐梯の主な湖はその影響で生成した堰止湖であり、中でも檜原湖は火山性の堰止湖としては日本最大規模を誇る。


 この磐梯山の大噴火は明治政府樹立後初の大規模自然災害であり、国が主導して研究やその後の復興事業が進められた。東京帝大(後の東京大学)の教授や諸外国の研究者がこぞって調査に参加し、国内の火山で近代的な調査・研究がなされた初のケースとなった。しかしながら、各研究者がバラバラに成果を発表したため、その影響を引きずり未だに噴火のメカニズムなどに見解の統一がなされていない点があるという。


 我々が観光で訪れる風光明媚な風景や自然が作り出す造形美には、激しい火山活動や地震・洪水など、災害の爪痕であることが少なくない。明治期の磐梯山大噴火においても数多くの村落が土砂に埋まり、あるいは湖底に沈み、同時に数百人の犠牲者も出している。当時、火山研究の草創期で噴火の前兆さえ認識されていなかったためこれが未曾有の大災害に繋がった。しかし、観測網が整備されたはずの現代の御嶽山の噴火(平成26年)でも数十名の犠牲者を出したことは記憶に新しい。裏磐梯の自然豊かな景観の礎には凄惨な大災害があったこと、自然の脅威は今もなお人間が推し量ったり、ましてやコントロールできるものでは無いことを努々忘れてはいけない。

 

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第17話 ~道の栄枯盛衰~

 米沢から関地区(関町)・綱木集落を経て旧桧原村・喜多方市に至る米沢会津街道という古道がある。この道の歴史は恐ろしく古く、なんと平安時代からの記録が残されている。米沢から会津塗の木地や木炭・紅花などが、また、会津からは味噌醤油や菓子砂糖がこの道を通って流通し、柳津・出羽三山の参詣道としても賑わった。途中の関町や綱木集落はその宿場町として大層栄えたと云う。


 裏磐梯に通じる西吾妻スカイバレーに向かう途中、米沢市街地を突き切って船坂峠を登った先が関地区である。米沢市街との標高差は100m余。通常、峠道と言うのは上った分だけ後で下るものだと思うのだが、この船坂峠は登り切ってすぐさま山の上に平地が広がる。米沢市街地からは全く窺い知れないこの珍妙な風景に最初大いに面食らう。地区の中央を大樽川が貫き、その氾濫原が幅1km,長さ4kmほどもある平野を形作っている。大樽川流域ではこの関地区を除き開析平野の発達が乏しく、下流部の小野川温泉付近であっても平野部の規模は関よりずっと狭い。


 関地区は周辺部の多くが基盤の花崗岩やその風化土であるマサ土が分布する。花崗岩は新鮮な岩体は硬堅であるが風化に弱く、河川による浸食度も大きい。但し、通常花崗岩地帯の山間地形は樹枝状や手指状の浅くて細長い谷筋となる事が多く、関地区のようにだだっ広い氾濫原を造ることは希有である。ではなぜこの関だけがこれだけ広い平野地形となっているのだろうか?。その疑問を解く鍵は下流側の河川の狭窄部に分布する硬い泥岩(綱木層)にある。山間の河川は順調に侵食が進むと直線状のV字谷となるが、硬い泥岩は河川による浸食が進まず、浸食されやすい上流部との勾配が緩くなる。すると上流側で流れが滞り河川は曲流蛇行を繰り返すようになる。つまり洪水時に溢れた水が行き場を失い流れが右往左往と変遷して辺縁の山々を削り、加えて流れが緩やかとなったため上流からの土砂をどっさりと置いていってしまうわけだ。

 

 米沢会津街道は、かつて伊達政宗が会津侵攻の際に使ったとされ、幕末には伊能忠敬・吉田松陰やあの新撰組の土方歳三らも通った、当に日本を動かした歴史の道でもある。昭和48年、スカイバレーの開通に伴い連綿と続いていた街道としての役割も終わりを告げ、また今年三月、児童数の減少に伴い139年の時を刻んできた市立関小学校も閉校となった。人の営みなど地質年代から見れば一刹那でしか無いが、それでも平安の世から千年以上も続いた一つの歴史が今、終焉を迎えたことに、寂寞の念を禁じ得ない。

 

 

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