2023 2月 10のアーカイブ
第32話 ~大峠と八谷鉱山~ 連載3周年特別号
1.大峠の光と影
山形県米沢市と福島県喜多方市を結ぶ国道121号大峠道路。今は快適な山岳ハイウエイとなり、通年安心して走れるようになったが、今回お話しするのはその旧道、米沢市入田沢から喜多方市根小屋を通る旧「酷道」の物語である。
旧大峠隧道・福島側坑門 −− モルタルを塗り固めただけの補修あとが却って生々しい −−
私が入社してまもない40年ほども前、喜多方市のとある食品工場でさく井工事やその井戸を含む給排水設備のメンテナンスを行うため、頻繁に現地と行き来する必要があった。工場のすぐ隣を今は廃線となった国鉄・日中線が一日数本、ガタンゴトンとのどかに行き来していたそんな時分である。当社から喜多方に行くには福島と山形の県境を跨ぐ必要があるが最大の難所が大峠道路であった。パワステの無い日野の4トンユニック車に重いワンビット(パーカッション工法の掘削ツール)を積みこみ、腰高で少し傾いだ状態で通る峠道はなかなかにスリリングであった。国道とは名ばかりの未舗装のつづら折りが続く山道を黒煙を吐きながらよろよろと登るトラック。右側は山肌が迫り、路上に落石の岩片が転がっている。左側は怖気(おぞけ)が走るほどの深谷。はるか谷底に朽ちた車両のようなモノが見えた(ような気がした)。這々(ほうほう)の体(てい)で峠を登り切ると狭く補修あとだらけの大峠隧道をくぐる。すると道路の状況が一変する。山形県側は狭い砂利道が続いていたが福島県側はとりあえず舗装されている。しかしだ、なんだこれはと言うほどのヘアピンカーブの連続。その数80程もあるそうな。日光いろは坂も真っ青のグネグネ道である。まるで幼児が遊び半分で描いたようなつづら折りの連続。かつてはこの道路をバスが通行していたと言うのだから恐れ入る。
大峠道をバスが走るの図
ただこの大峠道路のバス路線。実際に定期便として活躍したかどうかは定かでない。写真のバスの列は開業当時のデモンストレーションのように思えてならない。見ているだけでクルマ酔いしそうだ。
・大峠道路のおこり
この旧大峠道路、歴史をひもとけば江戸時代より更に前の安土桃山時代、あの豊臣秀吉や独眼竜・伊達政宗の時代まで遡(さかのぼ)る。当時米沢を治めていた政宗は会津侵攻のために密かに道路を開発していた。今の米沢市綱木から桧原村に抜ける米沢-会津街道が重要街道として使われており、その桧原峠を挟んで米沢・伊達政宗と会津・蘆(あし)名(な)義広が攻防を繰り返していた。大峠道路で政宗は背後から虚を突いて会津に奇襲をかけようとしたのかも知れない。その後この大峠道路が実際に使われたかどうかは定かでないが、政宗は磐梯山麓の摺上ヶ原で蘆名勢を打破りついに会津を手中にする。その頃の政宗の所領は山形の置賜、福島の中通りとこの会津、宮城県の中南部の外、南陸奥や奥州の一部も実質的な支配下にあり、全国的にも有数の規模を誇った。しかし正宗の急成長を危惧した豊臣秀吉により会津が召し上げられ、その後、蒲生氏・上杉氏・加藤氏と会津の領主が次々と移り変わることになる。会津鶴ヶ城を今の姿に整備したとされる加藤嘉明は会津の歴史に汚点を残すこの大峠越えの道路を封鎖する。政宗が大峠を切り開いて僅か50年後の事である。主要街道を一本に絞り地域の平定を狙ったのかも知れない。その後、明治の初期まで実に250年もの間、大峠道路の名は歴史の表舞台から消えることになる。
・近代の大峠道路
大峠道路の歴史を再び動かしたのはあの三島通(みしまみち)庸(つね)である。三島は山形・福島・栃木の各県令を歴任し、その間、栗子隧道(萬世大路)や大峠を含む会津三方道路の整備など、東北地方の産業育成に努め「土木県令」の異名を取った。
鬼県令-三島通庸
一方その手腕は極めて強引で、建設費の大半を地元に負担させ、そのうえ建設自体も民間人の強制的な夫役(ぶやく)(労役を課す事)を求め、または代夫賃の徴収を強要するなど、地元の反発を招いた。福島県は早期に自由民権運動が広まった地で、三島は民権派が多数を占める県会を軽視・無視して専断的な政治を強行した。三島に従わぬ有力者を次々に投獄排除したと云う。これに激怒した会津地方の議員や農民数千名が決起し喜多方警察署周辺に詰めかけ,警察側は抜刀警官による弾圧でこれにこたえ逮捕者は約二千名にも及んだ。(喜多方事件・福島事件)大峠道路は三島の独断的施策によって建設されたが地元民73万人余りの文字通り血と汗と涙によって完成されたとも言える。鬼県令・三島通庸の名は特に福島にて悪名が高いが、道路や橋梁の建設により地域経済の礎を築いたのも確かであり、評価が二分されるところではある。曲折の上整備された大峠道路であるが、峠部には隧道が築かれ牛馬車や車両の通行できるようになり物資の流通が盛んに行われるようになった。
・強制移住させられた?部落
旧大峠道路の福島県側、標高九百m程のところに「沼ノ原」という集落があった。付近は旧大峠道路沿いで唯一、なだらかな南向きの緩斜面が広がる地区で、いわゆる地すべり地形のひとつである。
地形図に鳥居マークがただ一つポツンと描かれているだけで、現地には何も無い。民家はおろか田畑の跡もはっきりとしない状態で完全な廃村となっており今は鬱蒼とした杉林が広がっているとのこと。示した地図にはないが北西方向に大沼なる池沼があり、その上方に馬蹄形の明瞭な滑落崖が存在する。集落の中心の土地はこの地すべりの流れ出した土塊の中~下部に相当する。大峠道路の途中に集落ができるとすればここしかない、そんな地形である。この沼ノ原集落に限らず人里離れた山間部で周辺部の地形にそぐわないなだらかな土地が急に広がっている場合があるが、それらは地すべりの跡地である事が多い。水が豊富で土地も肥えているため集落や田畑の耕作地として利用された歴史を有する事が多いが、現在その大半は放棄されて荒れ地となっている。
旧国道と助け部落・沼ノ原
沼ノ原集落は今の大峠道路の開通直後、明治17年に8軒の民家が移り住んで集落を営んだとされている。実はこの集落、三島の施策により他の地区から強引に転入させられたのでは無いかと言われている。開通直後の大峠道路は今の米沢市入田沢から喜多方市根小屋まで30㎞ほども無人の山道が続く。峠の隧道付近は標高約一千m。環境が厳しく熊などの野獣も多い。徒歩での峠越えが主流であった当時、旅人のいざというときの助け屋敷として置かれたのがこの沼ノ原集落ではないかと言われている。だが時代が移り往来の手段が自動車に変わるとその存在意義は失われ、また、雪国の隔絶した高地という環境から農地としての生産性も低く、生活も困難であったのだろう。戦後、次第に集落が衰退し静かに元の原野へと戻っていった。
旧大峠道路は平成4年、新道の部分開通と共に通行止めとなり、平成24年国道指定から除外されて廃道となった。いろんな思惑のもと戦国乱世に生まれた道路が今、数百年の歴史に完全に幕を降ろしたのである。
2.八谷(やたに)鉱山
大峠で忘れてならないのが八谷鉱山である。八谷鉱山は大峠の米沢側、現大峠道路と旧道の分岐より1㎞ほど上ったところに入り口があった。
旧大峠道路にせり出すように設けられたホッパー
写真は大峠道路の山形県側のかなり上った位置ににある八谷鉱山の施設だ。ホッパーとはクラムシェルバケットで採掘された鉱石をつかみ取り、そのまま索道で運搬してダンプトラックに積み込む施設である。積み込まれた鉱石は宮城県の細川鉱山へと送られて処理・精錬されたとの記録がある。旧大峠道路を走る分にはこの八谷鉱山の施設はあまり目に入らない。遙か谷底に何かの建物の屋根が数個と何本かの作業用道路が見えるだけである。八谷鉱山は選鉱や精錬施設を持たないのでそれらの建物や廃鉱のズリ山が無い。また、従業員はすべて米沢市からバスで通勤していたため鉱山町が形成されなかった。なので付近に目立った鉱山遺跡が少ないのだ。旧大峠道路を走って唯一、鉱山の施設を目の当たりに出来るのがこのホッパーだ。砕石山や鉱山施設には必ずある設備であるが、この八谷鉱山のホッパー、私の記憶が正しければ大峠道路(旧国道121号線)のすぐ脇にあったように思う。何を言いたいかと言えばつまり、道路上(国道)にダンプを駐めないと積み込み作業が出来ないと言うことだ。いくら通行量が少ないとはいえ120番台の主要国道に駐めっぱなしにしないと作業が出来ないような施設をよく国が許可を出したものだなと。だがこれには許可を出した役所側と道路を利用する鉱山側のもちつもたれつの思惑があったような気がしてならない。あくまで私の勝手な憶測ではあるが、倒木や落石が多く手入れが行き届かない大峠道路、営業用にこの道路を繁用している八谷鉱山側に便宜を図ってその代わり通常の道路の手入れは鉱山側に押しつけるというような取引があったのではないかな。
八谷鉱山は三菱系の尾富鉱業により経営された金・銀・鉛・亜鉛・硫化鉄を産し、最盛期の昭和50年頃には年間10万トンもの鉱石が採掘され、従業員も二百名を上回るなど大いに繁栄した。だが私が喜多方に通うのに利用した昭和60年頃、鉱山の規模を縮小しつつあったのだろう。実際にこのホッパーが稼働している(車に鉱石を積み込んでいる)光景は、ついぞ目にする事ができなかった。(昭和63年閉山)
・鉱床学のさわり
地質コラムを標榜(ひょうぼう)する以上、鉱山(鉱床)についてもチョットだけふれたい。金銀をはじめとする有用な成分を通常の岩石より多く含んでいて、採掘されて利用されるものを鉱石と呼び、それらが地中に分布する塊を鉱床と称する。鉱床のでき方には大きく分けて三種類あるとされ、①火成鉱床,②熱水鉱床,③堆積鉱床に分かれる。ここでそれぞれに説明を加えると紙面がいくらあっても足りないし小難しくて読みたくないと思うので、日本の鉱床の大半を占める②熱水鉱床についてだけ簡単に述べたい。しばしお付き合いのほどを。
熱水鉱床は地中深くのマグマから分離した水が周辺の岩石の成分を溶かしながら移動し、温度が下がると共に特定の箇所で成分が沈殿・濃集したものだ。地下の高温のマグマ、実は数%の水分を含んでいることは案外知られていない。火山国日本の金属鉱山は一部を除きこの熱水鉱床に類すると考えて良い。マグマで一定条件以上の高温・高圧に加熱された水分は液体(水)でも気体(水蒸気)でも無い超臨界水と云う状態になる。
この超臨界水、有機溶剤も上回るほど溶解度(他の物質を溶け込ませる能力)が高く、周辺の鉱物をどんどん溶かし込む。大量に成分が溶け込んだ高温の水(熱水鉱液)は地表に向かって亀裂や岩石の隙間を伝って移動する。すると徐々に温度が低下すると共に溶解度も低下するために隙間の周辺に特定の鉱物が固体として分離するようになる。これが熱水鉱脈型と言われる鉱床で、金・銀・スズやタングステンなどはほとんどがこのタイプの鉱床から得られる。
黄銅鉱-熱水鉱脈の代表的な鉱石(金では無い)
外見的な特徴としては白い石英や水晶の隙間に結晶化した金属鉱物が析出しているものが多く、開口面が美しいのでよく飾り石として利用される。八谷鉱山もこれに類する鉱脈だ。
もう一つ、有名な鉱石として黒鉱がある。
黒鉱-結晶の細かい黒い石?
過去の拙稿にて日本列島が大陸から分離する際に東北~北陸の日本海側で激しい海底火山活動があったことを話した。黒鉱はその火山活動で生じた熱水鉱液が直接海水で冷却されて生じたとされ、日本海側の金属鉱山として操業していた鉱山の多くがこの鉱床を採掘していた。代表的な鉱山としては秋田県の花岡鉱山が有名どころだ。特定の成分が結晶化して濃集する鉱脈型鉱床と異なり黒い細粒なガラス質の鉱石であるが、金属成分を多量に含んでいるため重い。見た目はあんまりきれいでは無い。銅・鉛・亜鉛など、多くの成分がごっちゃに混じって含まれている。
また、日本の代表的な鉱山に近代日本を支えた岩手県の釜石鉱山(鉄)や奈良の東大寺の仏像に銅を供給したとされる山口県の長登(ながのぼり)銅山がある。付近には太古の珊瑚礁を成因とする石灰岩が存在し熱水に含まれるケイ酸(石英の成分)がこの石灰岩と反応してケイ灰岩に変化する。そこでケイ酸以外の成分が置き去りにされて凝集することにより鉱床が生じる。ケイ灰岩の生成過程をスカルン作用と云い、この鉱脈をスカルン鉱床と云う。
スルカン鉱床-ざくろ石の部分が鉱石
日本の鉱石は熱水型の以上、3タイプの何れかに分類される場合が多い。見て楽しいのはやはり熱水鉱脈型でキラキラ輝ききれいだ。私も子供の頃の宝物の1つとしてかけらを持っていたが、あれはどこに行ってしまったのか。
・鉱山の繁栄と負の遺産
八谷鉱山は前記の通り熱水鉱脈型の鉱床を採掘していた鉱山で、主要な事業が戦後から始まった県内でも最も遅くまで稼行された鉱山である。昭和の末期、海外の安い鉱物資源に押されて閉山となったが地下にはまだ手つかずの鉱脈が残ったままだと言う。八谷鉱山は鉱石を採掘するという本来の事業は終えたが、かつての坑道から重金属などの有害成分を含んだ鉱毒水が今もわき出ており、それを処理するための施設が未だに稼働している。同じ米沢にある松川(最上川の上流)も一見、青く澄んだきれいな流れであるが実は魚の住めない死の川である。その上流にはかつてイオウ鉱山が稼行していた。県内には外にも鉱山の鉱毒水が流れ込んで自然環境に支障を与えている河川が相当数ある。
話は変わるが、昨年北海道の長万部で古い資源調査用の井戸から地下水が轟音と共に吹き上げ、周辺住民は夜も眠れないと大騒ぎになった。あれも人間は何もできずただ右往左往して手をこまねいているだけだったが、地下の圧力が自然と下がって自噴が収まったようだ。
幕末のペリー来航の際、黒船四隻で夜も眠れずと幕府の無能ぶりが揶揄(やゆ)されたが、科学技術の進んだとされる現代でも地中の穴1つから出る水すら止められない。鉱山の鉱毒水も止められない。なんかやっていることは昔も今もそれほど変わっていない。それが現実なのだ。人間の業(ごう)により狂った自然は、元に戻るまでそれに倍旧する時間と労力を要求する事を努々(ゆめゆめ)忘れてはならない。
カテゴリー:さんぽみちのちしつ
SPARK Vol.48
暦のうえではもう春ですが、山形はまだまだ寒いです⛄
家のわんちゃんはこたつに一回入るとなかなかでで来なくなります🤣
さて、SPARK Vol.48が発行されました。
今回は、専務のお仕事拝見!で専務が心がけていることや仲間への感謝など貴重なお話が詰め込まれています!
そして!さんぽみちのちしつが連載三周年ということでスペシャル号です✨
是非ご覧下さい👀
カテゴリー:SPARK